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歴史とは何か

作成: 2023年01月18日 06:01
更新: 2023年03月03日 09:04

歴史とは何か 新版 | E.H.カー, 近藤 和彦 |本 | 通販 | Amazon

『第一講 歴史家とその事実』要旨

19世紀の歴史家にとって,歴史とは客観的な事実の集まりであった.それゆえ彼らは,十分な史料を収集して,それを批判的に吟味することで事実を確定した後,その事実から何が結論付けられるかを議論すればいいと考えた.つまり,神聖で動かしがたい事実と自由で議論の余地のある解釈を切り離したのだ.

しかしこのような常識的とも言える歴史観は妥当なものではない.

まず,過去に起こった膨大な出来事のうち,史料として記録され現代まで残って歴史家の手に届くものは,ほんの一部しかない.ほとんどの出来事は記録されることなく,もしくは記録されても時の経過とともに失われる.

残された史料も,作り手の影響を免れない.例えば,我々は中世の西洋人が敬虔で信心深かったというイメージを崩すことができないが,これは,中世人について知ることができる事実のほとんどは,そう信じ,他人にもそう信じてほしいと考えた聖職者によってあらかじめ選別されたものだからである.彼らは史料として何を残し,どう記述するかにおいて,意識的であれ無意識的であれ選択的である.つまり我々に利用可能な過去の事実は史料作成者のバイアスで歪められている.

それに史料のなかでもとくに優越した地位を占める文献史料 古文書,古記録をはじめ,書籍,新聞,書簡など文字で書かれた史料は,その当時,文字を書くことができた比較的社会的地位の高い人間にしか作ることができない.つまり,誰が作成者になるのかにもバイアスがある.一方,文字以外の史料,例えば遺物や遺跡などの考古資料については,そのようなバイアスはない,しかし,食べ物,服など時間の経過で失われるもの もしくは,言語など,そもそも物体ではないものと,鉄・セラミック・貝殻など失われにくいものがあるために,物理的性質によるバイアスがあるといえる.

しかし,仮に過去の事実を全て知ることができたとしても問題が解決されるわけではない.例えばカエサルがルビコン川を渡ったこと「賽は投げられた」は,歴史的事実として認められることだが,その前にも後にもたくさんの人がルビコン川を渡ったことについては,意義あるものとは認められない.歴史家は過去の事実から,何を歴史的事実とするのか選択し,無意味な事実を捨てる必要がある.ある過去の事実が歴史的事実になるためには,その事実を利用して行われた議論や解釈が有効で意味あるものだと認められる必要がある.つまり,事実は解釈なしには得られないのだ.

こうしてクローチェによるとすべての歴史は「現代史」となる.その意味は,歴史の本質は,過去を現在の諸問題に照らして見ることであり,歴史家の主なる仕事は記録ではなく評価すること,ということだ.

ここからさらに歴史における歴史家の役割を強調していくと,客観的な歴史などというものはなく,歴史とは歴史家が作るものである,という主張まで達する.ならば歴史とは,自身の属する時代・地域の文脈において,それぞれの歴史家が構成したもので,どれをとっても一つの可能な観点に過ぎず,どれが正しいかを考えても意味がないことになる.

さらに現在の視点で過去をプラグマティックに見ることを極めていくなら,「見解に誤りがあるからといって,われわれにとってその見解はダメということにはならない.・・・問題は,それがどれだけ生命を延ばし,生命を保全し,種を保全し,ことによると新種を創り出すかということなのである」というニーチェの主張まで至るだろう.こうして事実を乱暴に扱い,むちゃな解釈をする歴史をつくることになる.

しかし,山は見る角度で異なって見えても,山には決まった姿がないとは言えないように,解釈が複数存在したとき,ある解釈がより妥当であったり,より客観的であることは可能だろう.歴史とは過去の事実がすべてを決めるものでも,現在の解釈がすべてを決めるものでもなく,現在と過去の終わりない対話なのだ.すなわち,現在の歴史家の解釈が過去の事実を選別し,過去の事実は彼らの解釈を制限する,という相互作用のループによって歴史は作られるのである.


追記

仮に過去の事実をすべて知れたとしても,「過去を主観的要素なく公平に圧縮した歴史」なるものを作れないことを,300ページの自伝を作ることを例に示してみたい.

条件として,自分が生まれてから例えば40歳で自伝を書くまでに,自分の身におきたすべての出来事が何らかの方法で記録されているとしよう.そして,自伝を自分の人生を客観的に写し取ったものにしたいと考え,できるだけバイアスなく50年の出来事をまとめるように記録の中から選択する.もちろん,自分が生まれる前のこととか,直接体験していないことも書くことはあろうけれど,それらの記述以外に300ページが割り当てられたとして考えよう.

公平に事実を選ぶ1つの方法として,それに費やした時間で記述量を決めるとしてみよう.この場合,仮に毎日休まず8時間仕事をしていたなら,\( \frac{8h}{24h} \cdot 300 = 100\)ページ分が仕事の記述に割り当てられる.同様に,毎日8時間睡眠していたなら睡眠についても同じく100ページを割り当てることになるがこれは適切だろうか?

もし適切でないと感じ,起きている時間だけに記述を割り当てることにしても,例えば,歯磨き・入浴・排尿排便に毎日合計30分費やしているなら,\( \frac{0.5h}{24h - 8h} \cdot 300 \fallingdotseq 10\)ページを割くことになる.

このように,費やした平均時間で記述量を決めるという選択方法では,記述する価値のない活動にページを割くことになり,その分,重要な活動の記述が削られてしまうことになる.例えば,ある1日の出来事がその後の人生に大きな違いをもたらしたとして,その場合,その出来事が占める時間にしたがって,\( \frac{24h}{50年} \cdot 300\)ページ分計算すると1ページ400文字として7文字しか記述しないというのは馬鹿げている.

このように公平な選択方法では,公平であるがゆえに,我々が感じる事実の重要性を汲み取ることができない.

そこで,事実に主観的に重み付けして自伝を作ることにしたとしよう.こうしてできた自伝は後々修正を要することも珍しくない.なぜなら,40歳の頃は気づかなかったが,例えば80歳になって,ある出来事の意味に気づくことがあり得るし.逆に重大事件に見えても,年を取ればとるに足らなくなるものもあるから.同じ出来事であっても,時間が経って人間的な変化があれば,別様にみえるのが普通である.

歴史とは,人類という種の自伝を書くことにほかならない.ならば,何の観点も入らない公平な歴史=過去の事実の公平なサンプリングは存在しないし,人類が死の直前でもない限り,決定版の歴史というものも作り得ない.

以上から我々が歴史を学ぶときに何がいえるを考えよう.

歴史とは,ある観点から有効に解釈付けられた歴史的事実のつらなりなのだから,良い観点・テーマを知ること,有効な議論の構築や批判方法を学ぶこと,が歴史を学ぶ意義だと思う.逆に,観点や解釈を著者と共有できなければ,記述内容は単なる過去の出来事の集まりになってしまい,歴史的な事実としての意義を見いだせなくなる.だから,テーマ設定がなかったり,解釈を提供しなかったり明快でなかったりして批判的な吟味が不能な本は避けたほうがいい.解釈や意義を積極的に提供するだけでなく,テーマ自体に意義があり面白いものが学ぶべき歴史書だろう.

最後にそのようなものをいくつか紹介しよう.

参考用語