
byの意味を知っているとは何を知っていることなのか(途中)
本書の問い・主張・目的
本書の問いは「byを他の英語母語話者たちと同じように,適切に使用するためには,byについてどんな知識をもっている必要があるのか?」
そして,この問いへの答えは,
- byをどのように使うと(例えば他の単語とどう組み合わせて使うと),どのような内容が伝達できるかを知っていること
この考え方を使用基盤モデルと呼ぶ.これは「意味の水源地モデル」と呼ばれる次の考え方と対比させると分かりやすい
- by単体の意味を英和辞典に典型的に見られるような,言わば意味リストのような形で知っていること
この2つのモデルを,もう少し詳しく見る.
まず常識的?な考え方である「意味の水源地モデル」から.
[意味の水源地モデルによれば]正しい言語使用は,正しくその語の意味を把握していることの結果にすぎない.すなわち,意味こそが使用の源泉なのである.そして,正しく意味を把握することと,正しくその語を使用することとは別のことだ.[…]正しい言語使用ということの内には少なくとも二つの要素がある.ひとつは正しく意味を把握すること,そしてもうひとつは正しい意味理解に基づいて使用を規制すること. 野矢2012:242
つまり,このモデルでは意味は使用と切り離されていて,まず意味を把握し,その結果その語を正しく使える,ということになる.
(https://toiguru.jp/toiguru-service)より引用した「意味の水源地モデル」的なbyの多義的意味の捉え方
この考えを批判する例を挙げよう.
ある生徒が読解問題を解いているときに「turn a profit」という表現に出会う.profitが利益であることは分かるが,turn a profitが何を意味するのかは分からない.そこで先生が「辞書でturnを引いてください.turnには「〈利益〉を得る」という意味があるんですよ」と解説する.それで納得して,次の日英作文でThe company turned more than 3 billion yen last year ...
しかし,こういうふうな表現はできない.turnが「〈利益〉を得る」という意味をもつのはアメリカ英語に限って言えば「turn a profit」という言い回しのみである.だから正確には『turnには「〈利益〉を得る」』というよりも,『turnはprofitを目的語に取ったときに「〈利益〉を得る」という意味を持つ』となる.それなら,最初から『turn a profitの意味は「利益を得る」』と理解したほうがいい.
同様に,actとactionの違いは何かと言われて,辞書的な意味リストの形で挙げることはできない.それを教えて英語学習者が自然にactとactionを使い分けるという自体は想像できない.むしろ,act of Xのという表現が使えるとか,one's actionで行動責任があるという意味合いで使えるとか,そういう用法の知識をみにつけることでしか,2つを正しく使う方法はない.
実証例としてBybee and Eddington(2006)の報告では, 話者は自分が触れた (スキーマの 抽出に使った)具体的な言語表現を記憶から抹消しない (ルールができて もリストを消さない) ことを示す証拠として見なすことができる。 彼女ら は, スペイン語のコーパスを用いて, become動詞である quedarse, ponerse, volverse, hacerse の後にどのような形容詞がどのような頻度で現れるかを調 べた。 すると, 「それぞれの動詞ごとに, 続く形容詞の意味の方向性にパ ターンがあり, 各動詞に注目すれば, 同じ意味グループに属する複数の形容 詞がほぼ同じ頻度で現れる」 という単純な分布にはなっていないことが分 かった (もしもそうなっていたとしたら, 話者の脳内にはスキーマ―すなわ ち各動詞単体の意味―だけあれば十分で, その動詞と形容詞の具体的な組 み合わせという使用のリストは必要ないことになる)。 たとえば quedarse を 例に取ると, 以下に図示したように 30, 意味の小グループを複数形成してお り, さらに同じ意味グループ内でも quedarse と共起する頻度に差があるこ とが分かった。
ない)。 さらに, 彼女らはスペイン語母語話者48名を対象に, コーパスか ら採取した 33個の文(become動詞と形容詞が共起している文) の容認性を 判断してもらう実験を行った。 すると, 同じ意味グループに属している形容 詞であっても, コーパスでの共起頻度が高い形容詞の方が, 共起頻度が低 い形容詞よりも, 共起の容認性が高く 出た。 たとえば quedarse sorprendido の方が quedarse pasmado よりも容認度が高いというような結果である。 こ れは, quedarse単体の本質的で抽象的な意味(おそらく単に become としか 言いようがない) を理解するだけでは説明のつかない事実である。 というの も, quedarse との共起頻度が高い形容詞も低い形容詞も, quedarse の持つ become的意味と矛盾しないという点では変わりがないからである。 これに 対し, 話者は自分が quedarse と出会ったとき quedarse の後には何が続いて いたかを記憶から消さずに覚えているのだと考えれば, 共起頻度に連動した 容認性判断が下されることの説明がつく。
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quedarseに続く語
- [ALONE]
- solo (alone)
- soltera (unmarried)
- aislado (isolated)
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[SURPRISE]
- sorprendido (surprised)
- deslumbrado (dazzled)
- pasmado (stunned)
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[SAD]
- triste (sad)
- nostalgico (nostalgic)
- hecho polvo (depressed)
- [ALONE]
これらは英語学習者についての話だが,母語話者についても同様のことが言えると考えるのは自然だ.
そして,本書の目的は,大量の実例を用いて,byの適切な使い方の習得に必要な知識を説明するためには,使用基盤モデルの優位性を示すことである.
以下補足.本書で取り上げるのはbyであるが,一般的にはbyの場所には任意の英単語や句をいれることができ,それに対しても本書の議論は通用すると思われる.
ではなぜbyだけについて議論するのか.語1つだけに絞ったのは,本書では大量のコーパスデータから得られる言語事実を,ありのまま記述・議論することを目指しており,必然的に語の幅広い用法をあつかうことになったからである.実際byの用法の分析だけで200ページが費やされる.というのも,理論に合う用法だけをチェリーピックして,合わないものを「例外もある」という一言で片付けたり,そもそも例外には全く触れないような,雑な観察と分析では,使用基盤モデルと「意味の水源地モデル」の差が見えてこないからだ.精密に実例を観察することで,byには如何に「例外的な」使用が多いかが分かる.
そして,そのうちなぜbyなのかは,筆者の興味がbyの多様で興味深い用法にあったからだろう.そして読むと分かる通り,実際byの用法は例外だらけで説明を拒むように見える.丁寧に例を見て納得の行く分析がされていくさまは非常に面白い.
習得プロセスと創造のプロセス grab by the hand
たとえば pull him by the leg,drag her by the arm,grab the cup by the handleがC1,C2,C3に相当し,Fが[VP by the NP],Mが「目的語の部位を掴む」にあたる。 具体的な表現に触れることを通じて,[VP by the NP]という形式と「目的語の部位を掴む」という意味が結びついたスキーマを抽出することができるのだ。ここからさらに, push the prisoner along by the shoulder(肩をドン ドンと押してその囚人を移動させる)やbalance the knife by the point on my palm(ナイフの先端を手の平に乗せてバランスを取る)のような表現を見れば, [VP位置コントロール + by + the + NP部位] のような,より抽象的なスキーマも習得することになる.
このようなスキーマの習得後も,drag... by the arm や catch... by the wrist などの具体的表現を忘れてしまうということはない。 言わば 「ルール」 (抽象的なもの, スキーマ) と 「リ スト」 (具体的なもの, 事例) の共存を許すのが使用基盤モデルなのである (Langacker 1987: 29)。 リストにある表現がルールに則っているならルール さえ覚えていれば十分であり, リストの表現を覚えたままにしているのは無 駄
先にあげたBybeeの報告も,具体表現例をそのまま覚えていることの例証になる.だからこそ,単語同士の共起に相関があったのだろう.
しかしこれは, 人間は周囲の言語から記憶した文や文の破片をオウムのよ うに繰り返すことしかできない極端に保守的な生き物だ, と言っているのでは ない。 使用基盤モデルは, 人間が 2種類の創造性―文法ルールに従ってかつ て触れたことのない文を生み出す創造性と, 文法ルール自体を変更して新奇表 現を生み出していく創造性―を持っていることも難なく説明することができる。 使用基盤モデルが想定する創造性を, 2種類の創造性を区別することなく 平易な言葉で表現すれば, 以下の引用のようになるだろう。 (43) 一般に, 道具の分解―合成の手順はまったく大まかに言って次のよう なものとなるだろう。 まず道具が全体として与えられる。 いくつもの 道具を手にするうち, そこに共通の部品が使われているのが目にとま るようになる。 そして, その部品がそうした道具においてどのような 役割をもっているかが理解されるようにもなる。 そうしたら, こんど はそれぞれの役割をもった諸部品を組み立てて, 新しい道具を作れる ようになる。 言語の場合もまた, おおむねこのようなプロセスを経る に違いない。 (野矢2010: 192
6 に照らして言えば, 出会ってきたコンテクスト C1, C2, C3 から F-M とい うスキーマ抽出を既に終えている話者は, このスキーマを新しい言語環境に 当てはめて C4 を産出することが許されるかどうかを判断する。 このとき, スキーマの持つ形式と意味が C4 において F-M以外のところに現れている形 式や意味と合うか(矛盾しないか) ―認知言語学の用語を用いるならば 「認 可(sanction)」 されるか―を検討する。 では, ここで問題がなさそうであれ ば話者はすぐさま F-M を C4 で使うことになるかというと, そうではない。 新しい C4 が, 既に記憶している C1, C2, C3 とどのくらい似ているかを評価す るのである。 そして似ている度合いが高ければ高いほど, 話者は C4 で F-M を使おうという気持ちになりやすくなる。 まとめると, 認可と類似性判断の 二重チェックシステムが働いているということである。
『byの意味を知っているとは何を知っていることなのか』p51より引用
新奇表現を融合との関連で分析した事例研究として, Taylor and Pang (2008) の seeing as though研究を紹介しよう32。 seeing as though... 「…なんだ から」 という新奇表現は, seeing that... という複合表現が 「…なんだから」 という意味を表すという知識と it seems as though... と it seems that... とい う 2 つの複合表現がほぼ同義で使われるという知識がなければ産出できな い33。 it seems as though... と it seems that... の知識は, 観察内容を表す埋め込 み節において, 補文標識として as though と that が交替しうるというメタ言 語的な知識をもたらす。 この知識と, seeing that... が 「…」 という観察事実 を根拠にして自分の判断内容を語り 出すための表現であるという知識が融合 することによって, seeing as though... という表現が生じるのである。 seeing as though は, 新奇表現であるがゆえに完全に容認可能とまでは言えない一 方で, しかしどこか英語らしいと感じられる。 この 「英語らしさ」 を与えて いるのが seeing that... や it seems as though/that... といった複合表現の知識で ある。 すると, 英語話者がこうした複合表現を覚えていることが重要にな るが, 使用基盤モデルはまさにこうした複合表現を母語話者が大量に記憶 していることを想定しているモデルである。 したがって, 使用基盤モデル は seeing as though という新奇表現を分析する能力を持ったモデルだと言え る。 使用基盤モデルが説明できるのは人間の保守性ばかりではないのであ る 。
それでは意味とは何か.それは使用という具体化を通して初めて触れることができる松永(2005)のいう本質なのだ.
用心しなければならないのは,本質という概念によって代表されるような概念をつくりあげてゆく発想である.私たちは,互いに似たものを多数,経験する.すると,それらは,どこかでつながっていると思う。 同じ仲間だから,と考えて済ませる場合もある.けれども,どうして同じ仲間なのか,それらを同じ仲間にするものとは何か,と考えてゆくこともある.そのとき,それらは皆,同じ本質を共有するからだ,とか,同じ本質のあれこれにおける発現だ,と答えてゆく発想をもつ場合がある.そして,本質について云々する.だが,その本質とは何か.本質とその発現としての現象とを対にして考える発想では,本質はいつも隠れている.では,その隠れているものをどう規定するか.それは,現われている事柄,現象から出発して,その現象を支配しているものである,というふうに提示することにしかならない.すると,本質はそれとして特定して示せない.本質とは,それがつなぐはずであったものども,すなわちそれが説明するはずの諸現象に依拠してしか語れない,諸現象に言及することなしには輪郭を与え得ないのである.
追記
この後さらに,創造プロセスの例としてstep by slow step
これが非常に納得的で,かつ拡張が ぜひ本書を読んでほしい.
AIこそまさに使用基盤モデルbased学習者の権化とも言えるもので,単語の次にどの単語が来るか予想するというのは,Bybeeの報告を見る限り,人間の学習の方法としても正当なもののように思える.
最後の松永の引用は,語の意味に限らず,言葉そのままの意味で本質とは何か,どう学ぶべきかの主張と捉えて良いように思える.