
人間この劇的なるもの
『1』要旨
われわれが意識的な役割を演じうる機会,それが「特権的状態」である.そこでは役割を演じきることができれば「完璧な瞬間」が実現する.
しかし,現実の生活ではそれに水を差し,邪魔するものがかならずでてくる.例えば,女は自分が少女の頃,父の死の場面で,母と叔母の節度のなさが,如何に特権的状態を台なしにしたかを男に説明する.その男もまた自然に身をまかせるだけで,自分の役割を理解し協力しよう,愛をともに完成させよう,とすることがなかった.
父が死んだときのことだ.その死に立ち会うため,少女は,病床に連れて行かれた.・・・悲しかった.だが,一種の緊張感に快く酔っていたのも事実だ.病室の戸が開かれる.少女はそのなかに呼び入れられる.「あたしはついに特権的状態のなかに足を踏み入れた.あたしは壁に寄りかかって,しなければならなかった動作をしようとした.だのに,叔母と母とが,ベッドの縁に跪いていて,そのすすり泣きで,なにもかも台なしにしてしまったのだわ.」
もしくは植物園の芝の上で,その男にはじめて抱擁されたときのこと,「完璧な瞬間」を創りあげるのを邪魔したいらくさについて.
「でも,あたしがいらくさのうえに座っていたことは,おそらくあなたは知らなかった.裾がまくれて,腿がちくちく刺されていた.すこしでも動くと,新しい痛みを感じた.そんなとき,禁欲主義だけでは十分じゃない.あたしはちっとも陶酔なんかしていなかったのだもの.あなたの唇がほしいとおもっていなかった.あなたに与えようとしていたあの接吻のほうが,もっとずっと大切だった.それはひとつの契約,ひとつの約束だったの.わかるでしょう,腿の痛みなんて,とんでもないことだわ.そんなとき,腿のことを考えるのは許しがたいことなのよ.痛みに注意しないというだけでは,まだたりない.痛がってはいけなかったんだわ.」
現実の社会生活が複雑になればなるほど,私たちは自分の演じる役割を自分で選び取ることができないし,それを最後まで演じきることもできない.私たちの行為はすべて断片で終わる.
私たちは喜びにせよ,悲しみにせよ,行けるところまで行きつくすこと,行為を完全に燃焼しきることを望んでいる.すなわち,わたしたちの欲する未来は,現在の完全燃焼であり,それによる現在の消滅であり,その消滅によって新しき現在に脱出することである.私たちの前には,つねに現在しか存在しない,という形で未来を受け取りたいのだ.中断された,断片化した現在のあとに真の未来はない.
人間は自然のままに生きることなど欲していない.だれもがなにかの役割を演じたがっているし,演じている.芝居がかった行為にたいする反感は存在するが,それは芝居がへたなのだ.役をはきちがえたり,相手役に無理な付き合いを強いたり,自分ひとりで芝居をしたり,早く出すぎたり,引っ込みを忘れたり,観物の欲しない芝居をしたり,そういうことだ.
舞台をつくるためには多少とも自己を偽らなければならない.こういうと,自己の自然のままにふるまい,個性を伸長することこそが大事だと,反発する人がいるかもしれないが,彼らは「青春の個性」というありきたりの役割を演じているに過ぎない.
個性などというものを信じてはいけない.そんなものがあるとすれば,それは自分が演じたい役割ということであり,その他のものは右手が長いとか,腰の関節が発達しているとか,そういう生理的なものに過ぎない.
わたしたちが真に求めているのは自由ではない.事が起こるべきして起こり,そのなかに登場して一定の役割をつとめ,なさねばならないことをなしているという実感だ.
なにをしてもよく,なんでもできる状態など,わたしたちは欲していない.ある役を演じなければならず,その役を投げれば,他に支障が生じ,時間が停滞する,そういう実感がほしいのだ.
劇においては,つねに現在が躍動しながら,すべてが連鎖反応としてつぎつぎに継起しなければならないが,それを一定の方向に引きずる未来の手が見えてはいけない.ある特定の未来にこぎつけるために,現在が捻じ曲げられれば,現在はその溌剌さを失う.だから役者は未来に目を向けてはならない.彼は現在にのみ没頭する.
しかし,連鎖反応はでたらめであってもいけない.現在は偶然の帰結であり,あらゆる方向への可能性を有しながらも,幕切においては,すべてが強度の必然性をもって甦らなければならない.
私たちは,自分の生が必然のうちにあることを欲している.
劇的に生きたいというのは,自分の生涯を,あるいはその一定期間を,一個の芸術作品に仕立て上げたいということにほかならない.
追記
8部構成からなる文章のうち1部のみをまとめた.このあと,3,4では意識的に自己を演技するものとしてのハムレットとマクベスを論じていて,1部のより詳しい説明にもなっているので2つ引用しよう.
こうしてハムレットはめまぐるしく,ときには軽率に行動しながら,意識の世界では一歩も動かず,じっと自己の宿命が完成されるのを待っている.かれは完全に無垢であるがゆえに,そして完全に意識的であるがゆえに,計量を事とする用心深い個性の手が,自己の宿命を造りあげるものではないことを知っている.ひとの眼には自己分裂的とさえ見える偶然に任せた自由闊達な運動が,宿命の必然に通じるものであることを知っている.こうして動かずに待つ意識を中心に,力いっぱいうごきまわること,それが演技なのである.
人間のおこなうすべての行為についていいうることだが,それが真に必然であるためには,その事前において,すべてを偶然にまかせなければならないのだ.偶然のなかに自分を突き放すこと,のみならず,できるうるかぎり必然を避けること,そうしなければ,私たちは自己の宿命に達しえない.
このアイロニーをハムレットは自覚して実践していた.ギリシア悲劇の主人公たちは自覚しないまま実践していた.一方,マクベスや『悪霊』のキリーロフ(wikipedia参照)は仮装の必然性の誘惑に耐えられず,性急に自己の宿命を追い求めてしまった.
次に後半の内容を象徴するような部分を引用する.
現代のヒューマニズムにおいては、死は生の断絶,もしくは生の欠如を意味するにすぎない。いいかえれば、全体は生の側にのみあり、死とはかかわらない。が、古代宗教的秘儀においては、生と死とは全体を構成する一つの要素なのであった。 人間が全体感を獲得するために、その過程として、死は不可欠のものだったのである。死から生へ、そしてそのためには、生から死へ,その過程を演じること、それがつまり、秘儀に参加しているひとびとの前で「おこなわれていること」だったのである。 古代ギリシアのレワシス教のある祭司は「死は禍事ではなく、恵みである」ということばを残している。このことは、現在、私たちが考えるほど陰惨な思想でもなければ、古代の蒙昧を物語るものでもない。秘儀を通じて死を経験することが、強く生るための発条と考えられていただけのことである。かれらがそのために死ぬに値するものが生のうちにあったのであり、それがまたかれらに生きがいを与えていたのだ。 もしそれがなければ、私たちは死を恐れるであろうし、同時に自己を信じえないであろう。そのために死ぬに値するものとは、たんなる観念やノデオロギーではない。 個人が、人間が、全体に参与しえたと実感する経験そのものである。そして、それは死の瞬間においてしか現れない。この瞬間を境にして、人は古い生と新しい生とを同時に所有しうるのである。私たちは、死に出あうことによってのみ、私たちの生を完結しうる。逆にいえば、私たちは生を完結するために、また、それが完結しうるように死ななければならない。ふたたび、それが、劇というものなのだ。 それが、人間の生きかたというものだ。
死ぬに値するのは,全体に参与しえたという実感なのだが,
全体について
どんな物質的要素が全体を構成するのかは,世界によってさまざま異なる.それゆえ,世界Aで全体であるものの物質的要素を,世界Bにもってきたとき,それが部分に過ぎないことがありうる.例えば血縁共同体は世界Aでは全体で,世界Bでは全体でないかもしない.血縁共同体がもつ精神的な側面は,世界AとBで異なっており,これが全体を構成するか否かを決めている.その意味で全体というのは本質的には想像の産物である.
もし,全体を構成するために必要な物質的要素に本質的な制限がないのなら,全体が物質的には自分という人間1人だけで構成されることも可能である.このとき,必然性は外側からみれば自由と見分けがつかない.
このように全体を私の精神世界として考えるなら「全体のみが必然性を有し,全体は個人に優越し,劇におけるカタルシスは個人の自由を罰し,全体の存在をたしかめることである」という福田の主張はすんなり受け入れられるのではないだろうか.もちろん劇における全体は,それが劇である以上,一人の精神世界である必要は全くないが.
関連
## 5
伝統的な生きかたや過去の秩序の崩壊を自由によって耐える.
つまり,自己の外にある現実が混乱した,ひどい状況にありながら渦中に座して逃避しないこと,すこしも精神を煩わさないこと,それによって自己の力は測られるとした.(I would rather not ,つまり湧き出た欲求にすぐさま答えるのではなく,時間をかけて「むしろ・・・しないか」と考えること.それは欲求の価値を否定する行為ではない.価値の否定は倒錯に繋がる.言語をこえること)
シェイクスピア(崩壊期としてのルネサンス)の劇のなかにエリオットが見たストイシズムはそういうものである.
しかし現代人は,こういう手段としての自由ではなく,自由そのものを無目的に求める.
どちらにしても,全体からのけものにされているという自覚によってはじめて個性や自由に到達する.この欠如感が,転化して,弱者の眼には最高の美徳のように映る.全体からの脱落者から優越者への道によって,際限なく優越者であるために,努力を続け,孤独になるか,特権階級の座席に座るしかない.が,前者は皆が嫌い,後者は皆がなることはできない.
全体を離脱した個人の頭数をそろえて,個人に都合がいいように全体を組織することは部分たる人間にはできない.
自由の原理は私たちに快楽をもたらすかもしれないが,決して幸福をもたらさない.信頼の原理は私たちに苦痛をもたらすかも知れないが,そのさなかにさえ生の充実感を受け取ることができる.
## 6
生き方とは本来,全体的な生き方しか存在しない.
個人が個人で「いかに生くべきか」を考えても,それは全体への反逆にすぎない.
*シェイクスピア劇においては自由は意識化もされず,目的化もされなかった.・・・それは主人公が衝動に身をまかした結果のものであって,衝動に身をまかすための名目ではなかった.元来,自由とは,そういうものであり,それで十分だったのだ.生命力とはそれみずからが存在理由であり,他にいかなる正当化をも必要としない.自由が正義によって合理化され,目的として追求されはじめたとき,生命力は希薄になる.いや,個人のうちに全体との黙契を可能なら占める生命力が希薄になるにしたがって,ひとびとは無目的な自由を恐れはじめ,身を守るために,それに目的や名目を与えて,正義の座にまつりあげるのだ*
*劇の終末において,私たちは,ただ事件の経緯を明らかにされるだけではなく,無智なるものが無智なるままに全智にいだきとられるのを,眼のあたりに見るのである.個人が個人であることを主張したまま,全体に合一するのを,そして自由が自由であるままに,掟によって罰せられるのを,私たちは感じ取る.シェイクスピアはそういう劇の図式を,芸術の形式を,・・・人間の生き方を信じていたのだ.*
*必然とは部分が全体につながっているということであり,偶然とは部分が全体から脱落したことである.*
*必然性というものは,個人の側にではなく全体の側にある.*
無目的な自由を正当化するために,正義の座にまつりあげる.
主人公の自由意志により全体との対立がうまれ,最後には個人は全体にいだきとられる.
## 7
必然性は全体の側にあること,悲劇においては主人公が全体にいだきとられることである,
## 8
不十分な情報から,認識のために行動し,失敗することが悲劇であり,そこからの脱出が喜劇である.
必然とは部分が全体とつながっていることであり,偶然とは部分が全体から脱落したことである.
行動は豊富な知識によって批判される,日常生活はその繰り返しである.必然性は個人ではなく全体のうちにある.滅びながら,自分を捨てて,生き延びる全体の勝利を見ようとする.表面的には,個人の自由を読み取って,満足を感じる,無意識の暗面では個人の自由が罰せられたことに,限りない慰撫を感じている.それによって全体の存在を確かめたから.
<span class="sidenote-number"></span><span class="sidenote">これについては教養についても参照</span