
仏教まとめ
縁起 -根本法則
この世の一切の事物・現象,すなわち
三相 -縁起からの帰結
縁起の法則から
無常
現象は原因があるときだけ存在する一時的なものだから無常.
苦
苦とは苦痛というよりも,unsatisfactoriness = 終わりなき不満足という意味.欲望の対象も,欲望の実現から得られる快楽も因縁によって形成された無常のものゆえに,常に不満足に終わるしかない.
無我
まず,我とは何か.これには,ブッタが生きた当時に支配的な考え方であった常一主宰(アートマン)を理解する必要がある.常一主宰とは,永遠に変わらず(常)、独立的に自存し(一)、中心的な所有主として(主)、支配(コントロール)能力がある(宰)と考えられる霊魂的或いは本体的実在を意味する.これこそブッタが否定した我である.例えば身体が我なら,それは「このようであれ,このようであってはならない」と命じコントロールできるはずだが,そうはできず,勝手に病み老いる.同様に我々が知るすべてのものは思い通りにはならない.
しかし,我々は自分が求めることを行う自由な行為者ではなかったのか.否,我々が自由と読んでいるものは傾向性・癖にすぎない.心にふと思い浮かんだ「これをしたい」という欲求・衝動に従ってこれを実現することは自由ではない.というのも欲望は勝手にやって来て,勝手に去っていくものだから.つまり,欲望は,自分で思い浮かばせているわけではないし,保持することもできない.だからこそ,これらの欲望のまま行動することは,自由ではないし,終わりなき不満足である苦につながる.
四諦 -4つの聖なる真理
こうしてブッタは四諦を説く.四諦は苦諦、集諦、滅諦、道諦からなる.
- この世の一切が苦である(苦諦)(cf.四苦八苦)
- 苦の原因は渇愛である(集諦)
- 苦の原因である渇愛を滅することが悟りである(滅諦)
- 悟りに至るためには八正道の実践を行うべきである(道諦)
渇愛は以下の3つからなる.
- 感官によって得られる刺激・快楽への愛(浴愛)
- 存在することへの愛(有愛)
- 存在しなくなることへの愛(非有愛
十二因縁 -渇愛はいかに生じるか
悟る,すなわち渇愛を滅するためにはどうすればいいか.そのためには渇愛がいかにして発生するのかを知る必要がある.それを記したのが十二因縁(The twelve nidanas)である.
十二因縁 | 意味 |
---|---|
無明 | 無知 |
行 | 諸行,業 |
識 | 識別作用,差別の元 |
名色 | 名称と形態 |
六処 | 6つの感覚器官 |
触 | 対象との接触 |
受 | 六処と触による感受作用 |
愛 | 渇愛 |
取 | 執着 |
有 | 存在 |
生 | 生まれること |
老死 | 老いと死 |
識(Consciousness (vinnana)),
名色(Name and form (namarupa) )
六処(Sense faculties (salayatana))
触(Contact (phassa))
受(Feeling or sensation (vedana))
根本には無明すなわち真理に対する無知がある.
次に行(諸行と同じ).私たちは縁起の一部であり,過去に積み重ねられてきた業(karma)の結果として存在している.それゆえ私たちには,無数の行為の反復によって形成された行動と認知のパターン(=傾向性・癖)が身についている.その癖による心の働きが煩悩,有漏
経典いわく
衆生とは業を自らのものとし,業の相続者であり,業を母胎とし,業を親族として,業を拠りどころとするものである
私たちは業に条件付けられてものごとを分類する(識).こうして感情,認識,意思,触がうまれる(名色).逆に識が滅せられると,名色も停止する.
感覚器官(処)と認識(識)の接触(触)によって,感情・感覚(受)が生じ,渇愛(愛)に至る.
wikipediaより引用
十二因縁のうち,無明・行はすでに取り返しがつかない.識が変えうる根本である.
私たちは業に依って,本来分別されていないものに対して,分別化を与えてしまう.
このような業に条件付けられた分別化をやめることで,渇愛を滅し悟りに至るができる.それは言語・概念を介さない純粋な認知の状態であり,そこでは「ある・ない」というような二分法はなくなる.それゆえ,縁起の生成消滅もなくなり,不生不滅に至る.
意思や理性による思考で悟りに至ることはできない.智慧,すなわち体験・経験によって得られる気づきが必要なのだ.「この世界は自分がつくりあげた物語に過ぎない」といくら言葉で唱えても,それで体験する感情や情動を変えることはできない.智慧の獲得=悟りは,ある瞬間におこる実存のありかたの転換であって,推論を超えて直接的に知られるものである.
八正道 -智慧を得るための方法論
だから,悟りに至るための八正道は8つの方法論であり,実践論である.その1つ1つはwikipediaを参照してほしいが,例えば正念(mindfulness)は内外の状況に執着あるいは嫌悪などの価値判断を加えることなく気づき
悟りのいろいろな名前
悟りは
- 涅槃(nirvāṇa ニルヴァーナ)(煩悩の滅尽)
- 解脱(輪廻からの離脱)
- 不生(縁起による生成消滅の超越)
- 無為(特定の因縁を超えた不生不滅の存在)
- 到彼岸(生死にさまよう此岸から彼岸である涅槃に至ること)
とも呼ばれる.
輪廻転生について
感覚からの情報が認知され経験が成立する場のことを経験我と呼ぼう.凡夫はそこに,固定的・実体的な私=常一主宰があると思い込み執着するが,経験我も原因・条件によって生成消滅する縁起のものだから,無常であり,苦であり,無我である.
輪廻とは経験我の業の連鎖である.経験我は縁起によるものだから,私とも他者とも名付けることができず,ただその場その場の認知のまとまりである.その認知のまとまりの相互作用,ある経験我の業が,別の経験我をうむという連鎖が続くことが輪廻である.ある衆生の死後には,その作用が新たな認知のまとまりをつくるだろう.これが転生である.
ちなみに悟った後にも経験我は残るとされる.それゆえ,悟ったからといって,経験が成立する認知の場がなくなるわけではない.
その他の補足
律について
解脱・涅槃の境地に至れば,世俗的な意味での善悪は捨て去られる.だから仏教の価値の枠組みから俗世の倫理規範を導くことはできない.とはいっても,労働も生殖も行わない無産者である僧が修業を続けるためには,社会の在家者に,この人にならお布施してもいい,と思ってもらうような行動を取る必要がある.それをまとめたマニュアルが律である.例えば,ブッダは両親の許可なしに出家をすることを禁止とした.これは智慧を得るために必要だからというわけではなく,そのようなことが続けば,社会からの支援が得られなくなるからである.涅槃を究極の目的として,それ以外のことは社会との軋轢を生まないために適当に合わせておく,という柔軟な姿勢をとることで,無産者の集団が人々の善意に依存しながら,善悪を捨て去った境地を追求するという奇跡的な制度を2500年もの間維持することができた.
中道について
中道には実践的な意味での中道と,哲学的な意味での中道がある.
前者は,例えばブッタが過酷な修行に意味はないとして,苦痛も快楽もないちょうど中立な状態で修行することを勧めたように,両極端の中間という意味である.
後者は,「ある」とか「ない」という二分法を超越した状態のことである.つまり悟りの智慧を得た状態である.
以上,中道の実践により中道に至る,と表せるような二つの意味が中道には含まれている.
『岩波仏教辞典』にはある中道の説明は次の通り.
「相互に矛盾対立する二つの極端な立場(二辺)のどれからも離れた自由な立場(中)の実践のこと、(中)は二つのものの中間ではなく、二つのものから離れ、矛盾対立を超えることを意味し、(道)は実践・方法を指す」
参考文献
- 仏教思想のゼロポイント
- 分別と戯論(公開pdf)
関連
ボツ
諸行(サンカーラ(Saṅkhāra) ) = conditioned things, phenomena 因縁の和合によってつくられる、この世の一切の事物・現象
https://ja.wikipedia.org/wiki/諸行無常
縁起 =「すべての現象が原因によって生じていること」 It states that all dharmas (phenomena) arise in dependence upon other dharmas: "if this exists, that exists; if this ceases to exist, that also ceases to exist". The basic principle is that all things (dharmas, phenomena, principles) arise in dependence upon other things.
三相 = 無常,無我,苦 = 縁起という現象の根源的な3つの性質を表現したもの
苦(dukkha) = unsatisfactoriness = 終わりなき不満足
無我 =
業(karma) = 後に結果をもたらすはたらき
輪廻 =
四諦 = 4つの基本的な真理
中道 = In the early Buddhist texts, there are two aspects of the Middle Way taught by the Buddha. David Kalupahana describes these as the "philosophical" Middle Way and the "practical" Middle Way. 中道の〈中〉は、2つのものの中間ではなく、2つのものから離れて矛盾対立を超えることを意味し、〈道〉は実践・方法を指す
八正道 = 涅槃に至るための実践的な8項目
2
凡夫が経験する現象はすべて原因によって形成された一時的なものであり,原因が寄り集まっておこるものであり(samudaya-dhamma),その原因がなくなれば消滅する.これが縁起 p.47
無常であることはいうまでもない.
欲望の対象も,欲望の実現から得られる快楽も因縁によって形成された無常のものだから,常に不満足に終わるしかない.それが苦である.人生一〇〇年だけの話であれば「人生は死ぬまで暇つぶし」とごまかせても,輪廻転生によって,何度も生まれ死に続ける無数の生涯を,終わりなき不満足の反復として無益に消費し続けることになる.
次に無我について,我とはなにかはブッタが生きた当時の文脈を理解する必要がある.
例えば身体が我なら,それは「このようであれ,このようであってはならない」と命じコントロールできるはずだが,そうはできず,勝手に病み老いる.
このように我々が知るすべてのものは思い通りにはならないのである.しかし我々は自分が求めることを行う自由な行為者ではないかと感じるかも知れない.しかし,それは傾向性・癖にすぎない.心にふと思い浮かんだ,欲求・衝動に思い通りに従うこと,「これをしたい」と思った時に,それをそのとおりに実現することは,
というのも,「これをしたい」という欲望ウハ,心にふと思い浮ぶもので,自分でそれを「思い浮かばせているわけではない」.しかも,欲望は勝手にやってくるし,残念なことに勝手に去っていく.だからこそ,これらの欲望のまま従うことは,自由ではないし,終わりなき不満足である苦につながる.
p.56,57
私たちは過去に積み重ねられてきた業の結果として存在しているために,私たちには無量の業の力が作用しており,それが無数の行為の反復によって形成された行動と認知のパターン「癖」をつけている.
その癖による心の働きが煩悩,有漏.
「衆生とは業を自らのものとし,業の相続者であり,業を母胎とし,業を親族として,業を拠りどころとするものである」
The cycle of rebirth is determined by karma, literally 'action'.[69][note 1] Karmaphala (wherein phala means 'fruit, result')[75][76][77] refers to the 'effect' or 'result' of karma.
In the Buddhist tradition, karma refers to actions driven by intention (cetanā),[82][83][77][note 2] a deed done deliberately through body, speech or mind, which leads to future consequences.
3
常一主宰がないこと
「常」とは永久に変わらないこと、
「一」とは独立していること、
「主宰」とは、他の力を借りず、自分の力だけで存在を維持できることで、一言でいえば「固定不変」の実体です
永遠に変わらずく(常)、独立的に自存し(一)、中心的な所有主として(主)、支配能力(コントロールできる)がある(宰)と考えられる霊魂的或いは本体的実在を意味する。 古代インドの思想では常一主宰はアートマンを意味するとして重要な課題の一つであった。
仏教では常一主宰な我を否定し、無我の立場に立つ。無我を知ることが悟りの道に含まれる。
パーリ仏典無記相応の『アーナンダ経』では、釈迦はヴァッチャゴッタ姓の遊行者の以下の問いかけに対し、どちらにも黙して答えなかったと記されている[11]。
- 我(attā)はあるか?
- 我はないのか?
この問いに答えなかった理由は、あると答えれば常住論者(sassatavādā)に同ずることになり、ないと答えれば断滅論者(ucchedavādā)に同ずることになるからと説いている[11]。一切漏経でも同様に説く。
知り得ないことについてブッタは沈黙する.「我はどこにも存在しない」という命題は否定も肯定もできない.それは白いカラスがいないことを証明できないことと同じである.だから「我はどこかに存在する」という命題も証明できないことになり,我は(どこかに)いるのか,(どこにも)いないのかということについても語ることはできない.分かるのは,今まで見知ったものはすべて我ではなかった(非我)ということである.これについては中道を参照.
悟った後にも経験我はのこる.経験我とは,感覚からの情報が認知され経験が成立する場のことである.凡夫はそこに,固定的・実体的な私=常一主宰があると思い込み執着するが,経験我も原因・条件によって生成消滅する縁起のものだから,無常であり苦であり,無我である.
輪廻とは経験我の業の連鎖である.経験我は縁起によるものだから,私とも他者とも名付けることができず,ただその場その場の認知のまとまりである.その認知のまとまりの相互作用,ある経験我の業が,別の経験我をうむという連鎖が続くことが輪廻である.ある衆生の死後には,その作用が新たな認知のまとまりをつくるだろう.これが転生である.