
饗宴
本文から幾つか抜き出し
饗宴(飲み会)に参加したものたちが一人ずつエロース
じっさい、まだ若い少年にとって、彼を愛してくれる優れた人よりもよいものがあるのかと問われても、ぼくには答えることができません。また、愛する人にとって、優れた少年よりもよいものがあるのかと問われても、ぼくには答えることができないのです.人が美しい人生を送りたいと願うとき、その者は生涯かけて導き手に従わねばなりません.しかし、血のつながりであれ、社会的評判であれ、財産であれ、それ以外のなんであれ、エロスほどうまく導き手を作り出せはしないのです.
少年愛をプラトニック・ラブ(と言っても,本文を読めば分かる通りプラトンは少年と性的な行為をしていただろうけど),つまり肉体の関わり抜きのものとして再解釈・再構成するなら,現代においてもそれほどおかしな主張ではないと思う.
イデアに到達するためには肉体の交わりが必要なのだという主張は,例えば以下の通りだが,納得的なものではない.
この道を正しく進もうとする者は、次のようにしていかねばならぬ。まず、若いときに、美しい体に心を向かわせるところからはじめる。指導者が正しく導くなら、その者は、最初は一つの体を愛して、そこに美しい言葉を生み出す。ところが、その者はやがて次のように悟るのだ ─ 一つ一つの美しい体が持つ美しさは、みな兄弟のようにうり二つであり、いやしくも姿における美を追い求めようとするならば、あらゆる体における美しさは同一なのだと考えなければ筋が通らぬのだとな。ひとたびこのことに気づけば、その者は、すべての美しい体を愛する者となるであろう。そして、ひとつの体への執着から解放され、それを軽蔑してつまらぬこととみなすようになる。
最後に本文中にある「心の中に宿している子を生む」に関連して,『テアイテトス』にてソクラテスがテアイテトスに自分の問当法の意義を説明するセリフの引用で終わりにしよう.
(わたし:ソクラテス きみ:テアイテトス)
どうやらきみは、きみ自身も考えるとおり内部に何かを孕んでいて、陣痛に悩んでいるとわたしは思う。そこで、わたしに対しては、産婆の息子であり、みずから助産の心得のあるものに対するように、ふるまいなさい。
このようなに,育まれつつも混沌としていて,意識されていない,言語化できていない思想を問答(ディアレクティケー)により明晰にするメソッドは産婆術と呼ばれる.そこで生まれた主張が虚偽のものであることが明らかになれば,相手は無知を自覚することになるが,それがソクラテスを死に追いやることになった.
一方,
かれらについては以上のようだが、他方、テアイテトス、どうやら孕んではいないのだと思える者もいる。そのような相手に対しては、かれらがわたしを必要としていないことを知ったからには、わたしは親切にも縁結びをしてあげて、誓って言うが、交際すればその人が益をうる交際相手を、じっくりと捜し当てるのだ。そのようにして、これらの人々の多くをプロディコスに任せたし、また多くの人々を、知恵があり、 畏敬 に値するほかの人々に委ねたのだ
とあるように,自己の内になにも宿していないものはソフィストに送り届けられたようだ.